次田瞬『人間本性を哲学する: 生得主義と経験主義の論争史』
以下は要約ではなく自分のコメント
第2章 知能 ――遺伝か環境か、それとも……
ayu-mushi.icon一般知能のみを知能と呼ばなくても、一般知能因子と個別的な得意さの両方が広い意味での知能であり、前者が「一般」知能である、というのはどうだろう と思った
ayu-mushi.iconIQの妥当性について:
あまりに多くのものと相関してしまうとIQが持つ説明価は失われるのではという話:
> kyuuri
>
> いや,計測レベルでの不信感というわけではないですね.
> くらさんのIQがどのIQかというのもはっきりとしないですが,一般IQというのは,ある因子分析の軸を適当にIntellegenceQuotientと名づけたのでしょう.それは適当な名前づけであって,単に指標Xと呼ぶようにしたほうが混乱しないかもしれません.いろんな指標Xがあるので,それが他のパフォーマンスと相関があっても不思議ではないわけですが,指標xの示唆するものが知能なのかはたまた根性なのかは推測の域をでないんじゃないんでしょうか?
> 社会的成功との相関があるということであれば,指標Xはもしかしたら根性の指数と考えたほうがリーズナブルかもしれない.
>
…
Of course, everything else is seldom equal. A more conscientious group may well outperform a higher IQ group. On the other hand, conscientiousness, like many virtues, is positively correlated with IQ, so IQ tests work surprisingly well.
Q. Wait a minute, does that mean that maybe some of the predictive power of IQ comes not from intelligence itself, but from virtues associated with it like conscientiousness?
A. Most likely. But perhaps smarter people are more conscientious because they are more likely to foresee the bad consequences of slacking off. It's an interesting philosophical question, but, in a practical sense, so what? We have a test that can predict behavior. That's useful.
やっぱり一部は根性指数の面もある ! ?
知能なのか根性なのか見た目なのか身長なのか
たとえば、高齢出産などで突然変異が生じている人がIQが低いみたいな場合、他の色々なものと相関してしまうかもしれない (健康など)。
また、ラシュトンの生活環理論 (r/K戦略説) が正しくて、IQが高いのは少数の子供を持ち子供1人あたりの資源投下量は多くするという生存戦略だった場合も、色々なものと相関してしまい、仮にIQと成功が相関しているとしても、知能が高いから成功しているのか、他の要因なのかは不明になる。
5
5-1
ayu-mushi.icon「(肌の色の違いなどは)気候への適応として生じたものに すぎない」というのは、気候への適応は他の種類の進化より速く生じることができる、といういみなのか?
それは「気候への適応」の遺伝性が他の種類の進化に比べて高いからか、それともそれらより生存に直結するからか? (気候は一夫多妻制などに比べずっと変わらずそこにあるからかもしれない。)
ジャレド・ダイアモンドが言うように地理が家畜化のしやすさや病原菌に影響するなら、家畜や病原菌に適応することも「気候への適応」かもしれない。(そもそもラシュトンは知能の差異を気候への適応の結果と考えている(Cold Winter Hypothesis)。)
進化が加速しているなら、時間が短くても掛け算すると十分な可能性は?
(淘汰圧は下がってそうなのになんで進化が加速しているのかはよくわからないけど(プライスの方程式からすると一夫一妻で人が死ににくい現代のほうが淘汰圧が低そう)
→ボールドウィン効果のせい??
学習能力があると適応度地形がなだらかになる)
目のように (環境からのフィードバックにより詳細に調整される必要がある) 複雑な適応が進化するために突然変異がたくさん起こらなければならないだろうけど、単に脳細胞の数を増やすとか脳を大きくするとかなら数回の突然変異でできそう
もしかしたら脳細胞が現在の数なのはそれ以上増やしても過学習しやすくなるか何かで知能が上がらないからなのかもしれないが
もし進化における知能の上限が、知能を上げることの本質的な難しさではなく、知能を増やしてもリソース的に見合わないという理由で決まっていたなら、少数の突然変異で知能を上げ (そしてリソースを無駄に使うようになる) ことができるかもしれないと思った
Selection generates correlated genetic differences. Selection for increased height causes changes in the frequency of many alleles, in principle at all loci that influence height, although that is still a small subset of the genome. Lewontin’s argument | West Hunter の議論からすると多くの遺伝子からなるポリジーン遺伝じゃないとルウォンティンの議論に応答できないから、そういうリソース分配的な話ではない?
リソース分配も、ある程度多い遺伝子だけど、出アフリカ後の進化という時間スケールでみたときに多すぎるというほどではないくらいの (肌の色と同じくらいの) 遺伝子の数ならいいのでは
While 50,000 years may not be enough for new complex adaptations to develop, it is enough time for them to disappear. A useless but costly adaptation will vanish in a quick period: fish in lightless caves lose their sight over a few thousand years at most.
どうも、Googleの検索結果を上から眺める限り、cold winter hypothesisは評判が悪いっぽい (当たり前といえば当たり前か)
そういえば銃・病原菌・鉄でも一瞬言及されてましたね >cold winter hypothesis
Generations to fixation = 2 ln(N) / s
where N is the population size, and (1 + s) is the fitness. (If each bearer of the gene has 1.03 times as many children as a non-bearer, s = 0.03.)
ayu-mushi.iconもし知能の違いを生み出したのが自然淘汰ではなく創始者効果だったとすれば、進化が生じるのに十分な時間がないことはむしろ好都合なのでは? (しかし累積的進化より威力が少ないだろう)
伊藤計劃のハーモニーに出てきた聴覚障害者の集団というのがいるが、これは自然淘汰で耳が聞こえなくなったわけではない。
だがこの隔離された島には、よそでは見られない特徴があった。この特徴によって、ヴィンヤード島は今日的な意義をもつことになる。島では300年以上にわたり、先天性のろう者の数が飛び抜けて高い比率を示した。これは遺伝性の聴覚障害が原因だった。アメリカにやってきたイギリスの初期開拓者のもたらした遺伝子が、結婚を通じて子々孫々に伝えられていったのである。
(むしろ十分な時間 自然淘汰が働けば耳が聞こえるようになるかもしれない(?))
「進化の遅さ」という事態は、「仮に環境がおなじでも、創始者効果を打ち消して (同じ) 環境に対し適応的な (同じ) 知能の高さに進化の結果落ち着くための時間が足りない」という仕方でも使えるのではないか?
(問題となっている状況では環境はおなじでないのでこのことにいみはないか)
もし他と生殖的にある程度隔離されるほどの場所へ移住していった人々の初期人数が少ないなら、サンプルサイズが小さいから標本平均の分散が大きいため、母平均と標本平均の差の期待値が大きい。(最初に移住してきた人々の知能がたまたま高かったかどうかという偶然の要因だけでその人々が繁栄したかどうかが決まったのかもしれない(?))
(母平均とある1人が1標準偏差以上離れている確率が16%)
逆に初期人数が多い場合、今度はサンプルの偏りが問題になる。「移住してきた」という共通点があるし、移住者同士に血縁関係や社会的関係がある場合はそれらの人々の遺伝的性質の間で何かしら相関が生まれてしまうだろう。
ある集団が生殖的に隔離されることは、進化の上では他の人々が死ぬことと局所的に似たようなものだろうから、移住した集団にとって移住という出来事は、共通点を持つ(かもしれない)人々あるいは運がいい人以外絶滅した、というような状態に近そう(ボトルネック効果)。 自然選択で生じたものじゃないとルウォンティンの議論に反論できないっぽい?
遺伝子単位では人種内のバリエーションが人種間のバリエーションより大きいのに、表現型になるとそうではなくなるのは、自然選択により遺伝子の分布の間に相関が生まれているなら
ということは、創始者効果などの自然選択じゃない因子で表現型レベルでの人種間のバリエーションが大きくなることはない?
では聴覚障害者の集団はなんなの
聴覚障害かどうかが単一の遺伝子で制御されてるのでは
あるいはどれかがだめになると聴覚障害になるという OR 式か
人種は科学的にマトモな概念か
ayu-mushi.iconともかく、人種が有用な概念かというのは、程度の問題だというのはいいだろう。
極端な例を考えてみよう。もし2つの人間集団間が地理的・生殖的に、すごい長い期間隔離されていたとする。極端な話、それで遺伝的変化が累積して、(生殖に関係する部位に変異が累積して?) お互いに交配可能でなくなるほどになれば、種分化が生じることになる。それぞれで生じた遺伝的変化は、一方で生じた変化が他方に伝わることはなく、それぞれ独自に変化を累積する。
このような場合には、2つの人間集団間を遺伝的に区別することは当然意味をなす。
そして、別に種分化はしてなくても、それぞれで別々の遺伝的変化がたくさん累積されているなら区別するのは意味がある
では、期間が短かったら? 集団間での交雑が大きかったら? その度合いによっては、イギリス人とイギリス系アメリカ人の遺伝的違いくらいのものになるだろう。それならあまり重要ではないはずだ (まあイギリス系アメリカ人は他の人種と交配しているからイギリス人と遺伝的に違ってもおかしくないけど)。
なので、ここで重要なのが、量的な違いというのはいいだろう。
動物学では亜種の下位区分として品種を用いる場合があり、犬種や人種などがこれに該当するが、これらを品種と認めない(※亜種と見なす)研究者もいる。
動物分類学上の用語で、同一種に属する地理的品種をさし、相互の間の形態的差異がはっきりしたものをいう。分布の広い種や移動能力の小さい種では、しばしば地域的に大きさ、形、色彩などに一定の違いがみられ、これが亜種である。国際命名規約上では亜種は最低の段階で、それより下の変種、型などは規約から除外されている。地質学では時代の異なる同一血統内の変型を亜種として扱っている。(日本大百科全書(ニッポニカ))
① 生物の分類学上、種の下に設けられる分類単位。種のうち、地域によって何らかの差がみられる時にこれを亜種として区別するので、同一種にいくつかの亜種が設けられる場合がある。(精選版 日本国語大辞典「亜種」の解説)
ayu-mushi.icon大きさ、形、色彩に一定の違いが見られればいいのであって、遺伝子的に違いが大きいことは前提されていない。
いや、前提にしているのもある?
(亜種の概念を生物学的に妥当でないとみなす人もいそうな気がする?
というか生物種の概念自体が生物学的に妥当でないとする人もいるだろう。三中信宏はそうだった気がする。
種分化は連続的なプロセスだ。
AがBとCに種分化したとすると、Bは――近親相姦タブーを気にしなければ――その親と交配できその親はその親と交配でき…とたどっていくといずれAにたどりついて、Aはその子と交配でき、その子はその子と交配でき…とたどっていくといずれCに行き着く。
よって、交配可能性関係は同値関係ではない。
生物学用語としてのraceというのがあって、人種はrace(生物学用語)の定義を満たさないみたいな話があるっぽい?
ayu-mushi.icon同じ理由から言語はまともな分類でないことが示される。
「オランダの国境近くに住む人々はドイツ側に住む人々と非常によくコミュニケートできるが、ダメットが基本的と主張する用語の意味に従えば、彼らは異なる言語を話している」(チョムスキー 1992a:101)。
To use Chomsky’s example in Knowledge of Language (1986), Dutch and German are traditionally treated as separate languages. However, some German dialects are closer to Dutch than to other German dialects, with which they are not mutually intelligible. Thus, our standard way of dividing different forms of speech into ‘Dutch’ or ‘German’ does not capture any real aspect of the world, but arbitrarily groups together linguistic phenomena.
というわけで、チョムスキー先生が人種はまともな概念ではないと言ったら、そうだね、となる。
ポーランド語-ウクライナ語-ロシア語
方言
インドには言語がいくつあるのか? (チョムスキーはこの論拠から公的言語の概念は言語学的に真っ当でないとみなしている。)
(ネルー『父が子に語る世界歴史 1』(最初の部分しか読んでない)ではインドの言語は1つだと言っていたような気がする。)
雲
富士山
(I-language間の差異が日本語、英語といった分類間での差異より大きかったら面白いがそんなことはないだろう)
デイヴィッド・ルイスは穴は数えられるから穴は存在すると言っているから、逆の理屈も成り立つとすれば、人種が数えられないなら人種は存在しないという理屈が通るか?
三角形はいくつあるか by David Lewis
ある関係が推移性を満たさない場合、同値類はwell-definedでなくなる (vagueness)。
交配可能性は同値関係。
家族的類似性、クラスタリング
職業はいくつあるのか
精神病は実在か? いくつあるのか?
数えられないとしても、「〜は白人である」「〜は黒人である」という述語のマトモさには影響しないだろう
混血によって分類されないものが生じることを問題視するなら、1400年時点 (適当に混血が少なそうな時点を取る) でのアフリカ、ヨーロッパ、アジアに住んでいる祖先の数の比率によって人種を量的に表すとかでどうか
ラテンアメリカでは本当に混血が進みすぎて人種が分からなくなっているらしい?
ancestry, population, race
ayu-mushi.icon恒常的性質群説 (HPC説) にもとづけば:
地理的・生殖的に隔離された人間集団には、環境の類似性および遺伝の仕組みにより、その中での類似性が、その外との類似性よりも高く維持される仕組みがある。(その仕組みがこの先も続くかどうかには、移民や、人種融和の度合いなどの、社会システム上の要因が絡むけれど)
よって、地理的・生殖的に隔離された人間集団は自然種である。――となるのでは?
近交係数
Steve Sailerは人種を「部分的に近親相姦している (巨大な) 拡大家族」と定義しているが、Gregory Cochranはその定義を受け入れていないらしい。
ayu-mushi.iconワンドロップルールという文化的な規則によって白人が黒人と子供を作りたくなくなったら、それは遺伝的な結果をも持つ。
たとえば、哲学者のフィリップ・キッチャー(1999)は、人種グループに人々を分割するという文化的実践は、そうした文化的実践が重要な生殖的隔離の結果であるような集団において、それじしんで生物学的に重要な分割の結果でありうる。とした。どういうことか。
キッチャーの主張は、原則として、そのような隔離は、集団間の生物学的な差異を保存し、蓄積することを可能にしているということである。 キッチャーはこれが現実の人種(例えば現代アメリカ人集団における黒人、白人、アジア人など)の中で実際に起こっているかどうかについて懐疑的だが、形質の進化を形作る文化の役割の最遠位的説明としての役割を提案している。
(新たな差異を蓄積するかどうかは別にして、すでに差異があればそれを保存することは間違いないのでは?)
…reminds me of one of the least understood contradictions in the conventional wisdom that Race Doesn't Exist:
- The existence of the One-Drop Rule shows that race is an arbitrary social construct.
- Therefore, lots of white Americans must have lots of black ancestors.
But when you stop and think about it, you realize the opposite is true: that the One-Drop Rule is the reason that so few self-identified white Americans have much black ancestry. As I wrote in 2001, when racial admixture testing via DNA was in its infancy: …
ayu-mushi.icon概念的な疑問
//これは遺伝率とは関係ない、どちらかというと人種間の差の方の話
遺伝的、環境的な原因というとき、否定因果は含むのか。
「たとえばADHDの人が集中できないのはコンサータを取らなかったからだ。
ゆえにこれは環境的な原因だ。」と言えるか?
否定因果を含むならなんとでも言えてしまう(彼の頭がいいのは、頭を強く殴られなかったからだ)
しかし違いの原因として、健常者がコンサータを取っているわけではないのに、それを原因としても仕方がない
ayu-mushi.iconそもそも人種が生物学的にマトモな分類かということと、人種毎の知能差が遺伝によるのか環境によるのかという問題になんのかんけいがあるのか?
強風か突風かの線引きは恣意的だが、だからといって突風と強風のもたらす影響の違いが社会的に説明されるべきということにはならない。
イアン・ハッキングは、『ベル・カーブ』は、アフリカ系アメリカ人という分類がIQに関して統計的に意味のあるクラスであるとだけ言っているのだと言っている。これは他の事柄に関する推論に意味がある分類かとは別だという。
強酸性、弱酸性
大人と子供を分ける境界が、20歳か18歳かというのはワンドロップルールと同じく恣意的な慣習にすぎないが、だからといって大人と子供には社会的な差異のみがあるのだとは思えない。
「思春期の」「乳児」「幼児」
さらにいえば、大学教授というのは完全に社会的な地位だけど、だからといって大学教授に生物学的な共通性が絶対に存在しえないかといったらそうではないだろうと思う
これって概念が投射可能じゃないから帰納に使えないって批判なの?
つまり、今まで観測された黒人、白人のサンプルから、黒人、白人全体に一般化できない
まあ黒人内での遺伝的多様性はユーラシア大陸全部合わせたよりも大きいみたいに言うから、全部に一般化できるかはあやしいよね
ayu-mushi.icon任意の人間の集まりが人種なので人種は$ 2^{世界人口}個存在する
左翼系の界隈では,よくこんな話がされている――「人種は社会的構築物だ」 これって,いったいどういう意味にとれるだろう? 当然,身体的なちがいは現実だ.それに,こうした身体的なちがいがクラスタをなしているだろうというのも自明だ.なぜなら,人類史の大半にわたって――それにいまだって――いろんな地域にまたがって混交していた集団はごく限定されていたからだ.クラスター化アルゴリズムは,いろんな特徴のクラスタを選び出し,そして,お望みならそのクラスタを指して「人種」と呼んでいい.
でも,クラスター化アルゴリズムで選び出されるものと,みんなが「人種」と認識しているものは,同じなんだろうか? もちろん,ときには同じ場合もある.だけど,いつでも同じってわけじゃない.さっき見てもらった2枚の写真からわかるように,日本みたいにとてつもなく同質だと思われている場所ですら遺伝的なちがいは存在している一方で「そのちがいは別々の民族を表すものだ」と文化や社会が認識していないだけという場合がある.
/* About Lewontin's Fallacy
In March, developmental biologist Armand Leroi published an op-ed in the New York Times rebutting the conventional wisdom that race does not exist. (The conventional wisdom is coming to be known as Lewontin's Fallacy: that because most genes may be found in all human groups, the groups don't differ at all. But patterns of correlation among genes do differ between groups, and different clusters of correlated genes correspond well to the major races labeled by common sense. )
相関のパターンというのはよくわからないけど、複数の遺伝子を同時に考慮するとそれらの遺伝子にもとづいて人種を間違って分類する可能性は無視できる程度に小さくできるということらしい。
遺伝子ではオーバーラップが大きすぎて分類に役立たない、とする主張への反論。
エドワードの論文には0, 1という遺伝子が複数あって二項分布している
二項分布ということは、各試行は独立? じゃあ相関構造ってなに?
(かんたんのため人種を2つとすれば) 2つの集団を両方考えたときに各遺伝子間には相関がある (が人種についてコントロールすると遺伝子間の相関は消滅する/してもかまわない) という話か?
それとも、人種を固定したときに、遺伝子間に相関が見られるが、その相関が人種ごとに異なっているということか?
主成分として人種が取り出されるようなことを言っているが、それはたぶん2つの人種を同時に考えたときに遺伝子の間に相関があるという話だろう。
前者だとすると、相関構造をベイジアンネットワークであらわすと、
人種
/ | \
遺伝子A B C
のようになる。
Every allele probably occurs in each ethnic group, but with varying frequency. Suppose that for a particular gene there are 3 common variants (v1, v2, v3) all the rest being very rare. Then, for example, one might find that in ethnic group A the distribution is v1 75%, v2 15%, v3 10%, while for ethnic group B the distribution is v1 2% v2 6% v3 92%. Suppose this pattern is repeated for several genes, with the common variants in population A being rare in population B, and vice versa. Then, one might find a very dramatic difference in expressed phenotype between the two populations. For example, if skin color is determined by (say) 10 genes, and those genes have the distribution pattern given above, nearly all of population A might be fair skinned while all of population B is dark, even though there is complete overlap in the set of common alleles. Perhaps having the third type of variant v3 in 7 out of 10 pigmentation genes makes you dark. This is highly likely for an individual in population B with the given probabilities, but highly unlikely in population A.
We see that there can be dramatic group differences in phenotypes even if there is complete allele overlap between two groups - as long as the frequency or probability distributions are distinct. But it is these distributions that are measured by the metric we defined earlier. Two groups that form distinct clusters are likely to exhibit different frequency distributions over various genes, leading to group differences.
ここでいうようにfrequencyが違うだけであれば、人種を固定したときに個々の遺伝子間に相関があると仮定する必要はない。
たとえば
table:aaa
人種/遺伝子 A:a B:b
人種α 7:3 7:3
人種β 7:3 7:3
とすれば、遺伝子AとBは、人種を固定して考えたときには独立でも、2つの人種を同時に考慮するときにはAとBの間には相関が現れるはずだ。
(つまりAを持つ人は同時にBを持つ確率が高く、aを持つ人は同時にbを持つ確率が高い)
ポリジーン遺伝のように複数の遺伝子が同じような効果を持つのであれば、複数の遺伝子のそれぞれはどれもどの集団にも共有されるものであっても、(その遺伝子の数が多くなるほどに)表現型レベルでの集団間のオーバーラップは小さくなる。
オーバーラップは小さくても、絶対的な差が小さいのであれば、人種同士を遺伝子によって区別する上で支障はなくても、人種間に大した違いはないということになるが。
つまりエドワーズの反論は、 人種間の遺伝子差異が6.3%しかないことでオーバーラップが大きすぎて分類自体が成立しないという主張に対する反論にはなっているが、分類としては成立するが大して違うわけでもないだろうという主張に対する反論にはならない。
*/
Similarly, there are a lot of people like Steve Sailer and Emil Kierkegaard arguing that there are racial gaps in intelligence, based on genetics. But when I read them on other stuff, they’re just not great thinkers. In contrast, while Jay M’s blog isn’t as popular or as fun to read for most people, he has a good piece arguing pretty convincingly against the genetic explanation of the gap.
異なる人種の親に養子に取られた人の研究
"Classification, Natural Kinds, and Kinds of Humans"
"Week 15 - Population Genetics and Race"
@Steve_Sailer: A brand new paper by Fuerst et al using the great Adolescent Brain Cognitive Development nationally representative database of 10,000 US 10 year olds. Do kids who look whiter than they actually are score higher on IQ tests than their genetic ancestry predicts? No. But GPA maybe?
https://pbs.twimg.com/media/FyTNFyTWYAIMpB2.png
5-2
生物種について三中は本質主義を取るバイアスのせいで存在するように見えると言っていた
生物種についてそうなら、当然人種についてもそうでしょうね
知覚によってヨーロッパ系か、アフリカ系かという起源を高い精度で言い当てられるならそれは実在に対応しているのでは
人の生理的な特徴・見た目から、その人がアフリカ由来の先祖を多く持つのか、それともヨーロッパ由来の先祖を多く持つのかがわかるか (最終的にはみんなアフリカ由来だけど…)
自認する人種と遺伝学的に得られた人種概念がどの程度対応するかを調べた研究はあるので、自認する人種と知覚された人種がどの程度対応するかを調べれば、遺伝学的に調べた人種概念と知覚された人種概念がどの程度対応するか分かるのでは
日本人と韓国人はアジア系という意味では同じ人種だけど、人を覚えるのには国籍の情報を利用するかもしれない
分類がsalientであることと、マトモであることのちがい
5-4
5-4-2 学校でちゃんと勉強するとIQは上がるのか
じゃあIQは勤勉さのような性格特性と相関している?
(追記: してるっぽい。
Our findings confirmed positive associations between IQ and the facets of Competence and Dutifulness (ranging 0.11–0.27),
)
勤勉性と相関が強いテスト項目の成績には特に人種間の差異が大きいとかあるの?
7
7-1
雇用でIQテストを使うのが禁止(アメリカ)あるいは無視? (日本) された結果 他の妥当性に乏しい認知テストが使われていることを嘆いているけど
いまIQテストに妥当性あるのはそれが雇用に使われていないからにすぎず、使われるようになったらグッドハートの法則によりそれらの他の認知テストと同程度 (たとえば) の妥当性に落ちてしまうという心配はないのかな (グッドハートの法則の餌食になって妥当性がなくなって研究に滞りが出ることを防ぐために心理学者が自分が作った指標を重要な意思決定に用いることを禁止する法律を支持する政治運動をしてたら面白い)
日本では禁止されているわけではないのになんで使われてないんだろう?
Bryan Caplanはさっきの記事のときとは意見を変えて、調べていったところ「違法だから使われていない」という理由なわけではないようだというふうに見えてきた、と言っている
(Bryan Caplanは雇用で学歴が重視されるのはIQテストが禁止されているせいみたいなことを言っている? が、学歴は知性だけでなく時間選好の低さのシグナリングという話もあった気がする)
IQテストを用いれば競争で優位に立てる立場にあるはずの企業がそれを採用していないならば、なぜ著者はそれらの企業より人事採用について優れた判断ができると思うのだろうか
現在の試験よりIQテストが優れていると思う人は、企業に、「今使っているテストの代わりにIQテストを使用するという契約に同意すれば、事前にお金 a 円を渡す。もし今後 n 年で人材獲得や利益が、前年や予想に比べ、かくかくの指標のもとで改善したと認められたならば、aより大きいお金b円を報酬としていただく。」という申し出を行えば、利益を得られるのではないか?
(このような申し出を受けた企業が、(申し出をした時点で情報としては伝わってしまうため)「そういう申し出をする人がいるくらいだから使ってみよう、でもわざわざお金は払わない」と思って 申し出を断り かつIQテストを使うようになったという場合、申し出を行った人に利益が得られないので申し出を行うインセンティブがないという問題があるかも)
Scott Alexanderは学歴社会の原因はIQテストが禁止されているからという説に異を唱えている
そうだとすると(IQテスト禁止じゃないとおもう)韓国が学歴社会になる意味がなさそう
第3章 言語 ――文法能力は本能か、習慣か
p.257 色と模様の両方を手がかりにして部屋を探索するためにマージの機能が有用ならなぜそれを一般知能の一部とみなさないのか
コミュニケーションではなく内的思考に有用ならなぜ一般知能とマージが別の能力とされているのか
マージを加えるというのはXという体系に自由マグマFを食わせてF(X)にするみたいなかんじ?
(つまり、data FreeMagma x = Leaf x | Node (FreeMagma x) (FreeMagma x))
第4章 数学 ――アプリオリな知識はいかにして可能か、あるいは不可能か
面白かった。
クワイン ベイズ
→クワインの経験論の2つのドグマが詳細に批判されていて面白い
確証をベイズ主義的に捉えるなら、もしある結果が観測されてある命題が確証されるなら、もし逆の結果が観測されたならその命題は反確証されなければならないので、観測結果を予想するのに数学的言明を用いた場合、予想が当たれば数学的言明が確証されるとクワインのように考えるなら、予想がハズレた場合には同じ数学的命題が反確証されていなければいけない
大陸合理論者のアプリオリな直観は現代では廃れたというけど哲学的直観がアプリオリな正当化を与えると考えている人は合理論者と共通していないか
ボゴシアンとウィリアムソンの論争
雷鳴と雷光の関係はア・ポステリオリかつ分析的ということはないのだろうか
〈「雷光」に「雷鳴」が続くということは、それらの語の意味だけから導かれる/意味を構成している〉ということから、〈「雷光に雷鳴が続く」という知識はアプリオリである〉という認識論的結論を導くには、意味とその理解がどのように結びついているのかについての前提が必要だろう
名前 (固有名) についてのミル説において、「宵の明星」と「明けの明星」は意味的に同じになるが、「明けの明星 = 宵の明星」という知識がアプリオリだとは主張しないだろう
ミル説においては「明けの明星 = 宵の明星」はア・ポステリオリな分析的真理ということになるだろう
セラーズは、(形而上学的にではなく) 法則的に必然的な語同士のつながりが意味を構成するというふうに考えていたっぽいし
ブランダムもたぶんそれを継承してるので、「雷光」→「雷鳴」という推論規則が雷鳴と雷光の意味を与えるとしているのだと思う
雷光→雷鳴 という法則を含む理論の理論語として雷光、雷鳴という語の定義を考える?
ブランダムはよく「xは銅である」→「xは1085°Cで蒸発する」という推論規則を推論主義的意味論に重要な推論規則の例に出しているので、ある言葉の意味を理解して使える人が意味を構成する事実や意味だけから導かれる真理をアプリオリに知っているとは考えていないはず
(しかし「同じ物質は同じ融点を持つ」ということは「物質」という概念の意味から知られていると考えているのか? そうでなければ、なぜこれが意味に重要なのか分からない)
しかしブランダムのようにもし意味についての事実が社会規範についての事実によって構成され、かつ意味論的外在主義を取るとすると、誰も知らない社会規範があるという帰結を導くのでは
「xは銅である」と主張する人は「xは1085°Cで蒸発する」にもコミットしなければならないという社会規範は銅の融点が発見される前からあったが、誰もその社会規範に気づかなかった
まるで「ギリシャ時代の奴隷制度は (ギリシャ時代に、誰も気づいていないときから) 社会規範に反している」というようなもの?
(法則について論争することは、ただの言葉の意味上の争いなのか?)
意味と理解を切り離すのとは別の方向として、言葉wについて「一定の経験的知識を持つ人だけが、語wの意味を理解できる」という立場はありえるか
「一定の経験的知識を持つ人だけが語wの意味を理解できる」と「それが誰かに知られているかどうかとは別に、一定の経験的事実が成り立っていることが意味を構成する」
モーダスポネンス
完全に規約的だけどそのルールについて反例が出される場合もあるのでは
「中絶は殺人だが違法ではない、よって殺人は常に違法というわけではない」
構文論的なルールとか
モーダスポネンスが常に成り立つわけではないと思った論理学者も、モーダスポネンスが成り立つと暗黙的には知っていたのかもしれないし、あるいはモーダスポネンスに従うという行動的傾向や、knowing-howは持っていたのかもしれないと思った。
意味の使用説からすれば、モーダスポネンスのルールを見せられたときに明示的に同意することではなく、モーダスポネンスに従うことが「ならば」という語の意味にとって重要なのでは
モーダスポネンスはそもそも推論規則であって命題の形をしていないので、命題知と考えることはできない
想像力
雑誌の想像の例は帰納法みたいなものではないのだろうか
長さの尺度より「〜は〜より(何倍)長い」という述語が基本にあるはず
経験に基づいているけど経験の事実的な側面に依存していない
経験が後で破棄されても改定されない